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祭殿
弥生時代中期が終わり近畿地方の大きな環濠集落が衰退した後、突如伊勢遺跡が現れます。
そのシンボルとも言えるのが「独立棟持ち柱付大型建物」です。他ではこのような建物は建てられなくなります。
その独立棟持ち柱付大型建物が伊勢遺跡近くの下鈎遺跡と下長遺跡に建てられます。
このことから、伊勢遺跡と何らかのつながりを持ち、「祭殿」という目的をもって建てられた建物と考えます。
古墳時代に移り伊勢遺跡が廃絶した後にも、祭殿と考えられる同じような「独立棟持ち柱付大型建物」が下長遺跡に建てられます。このことは「伊勢遺跡を継ぐ」とも読み取れます。
祭殿の位置
祭殿が建てられていたことを示す柱穴を図に示します。
祭殿の位置
祭殿の位置 出典:発掘調査報告書より作成  写真【守山市教委】
祭殿の詳細

SB-1(弥生時代後期の建物)

SB-1の想像図 弥生時代後期後半に建てられる祭殿は、大きさや太い柱を使う点など伊勢遺跡の建物とよく似ています。
ただ、柱の本数が少ないことと心柱がないことが、伊勢遺跡とは異なっています。
 下長 SB-1 (参考)伊勢遺跡
 柱構造 1間×3間 1間×5間
 柱形状 丸柱 丸柱
 建物面積  38u 40〜44u
 大きさ 4.6m×7.9m  *
 独立棟持ち柱 あり あり
 心柱 なし あり(丸柱)
 残留柱根 なし あり/なし
 注 *:4.5〜5.0m × 8.7〜9.1m

柱は抜き取られて残っていませんでしたが、柱穴は伊勢遺跡の建物のものとほぼ同じで、長径1.7m〜2.1m、短径1.1m〜1.4m、深さ0.4m〜0.6mとなっています。太くって長い柱を斜めに挿入して立てる方法は伊勢遺跡と同じです。
伊勢遺跡の祭殿との大きな違いは「心柱」がないことです。
祭殿自体が持つ「祭祀場」の意味の上に「心柱」が表す「神聖性」のようなものが考えられますが、伊勢遺跡にはあって、下長遺跡にはない、何か意味がありそうです。

SB-2 ・ SB-3(古墳時代早期) 

SB-1は柱根が抜き取られているので、伊勢遺跡が廃絶されたとき、下長遺跡の祭殿も壊されたものと思われます。しかし、古墳時代早期になって独立棟持ち柱付建物が再建されます。SB-2とSB-3はほぼ同じ大きさの建物で、ほぼ同じ場所に建て替えられています。
SB-3の想像図
 SB-2  SB-3
 柱構造 2間×3間 2間×3間
 柱形状 ? 長方形
 建物面積 20u  20u
 大きさ 4m×5m 4m×5m
 独立棟持ち柱 あり? あり
 心柱 なし あり(丸柱)
 残留柱根 あり/なし あり

柱穴は円形で、SB-2で40cm、SB-3は50cmと、弥生時代の建物に比べると半分程度となっています。
床面積もSB-1の半分くらいで全体に小ぶりできゃしゃな感じになっています。
独立棟持ち柱を持つ「祭殿」に意味があり、大きさは関係がなかったのでしょう。
【残されていた柱根】
SB-3は柱根が残されており、四角形の柱が使われていました。大きさは15cm×20cm角の長方形で、伊勢遺跡の直径40cmの柱に比べると、かなり細い柱となっています。
独立棟持ち柱は、SB-1に比べ、かなり斜めの角度で立てられていました。
理由については良くは分かりません。
柱の加工痕から鉄器によって切削されていることが分かりました。
柱は柾目(まさめ)の美しい面が見えるように外側に向けて柱を据え付けてありました。
SB-3で重要なのは「心柱」があることです。
しかも建物の柱は長方形なのに、心柱は丸柱です。
丸柱であることに意味があるのです。
SB-3の柱根の加工跡
SB-3の柱根の加工跡
【守山市教委】
SB-3の柱根
SB-3の柱根

SB-4(古墳時代早期)

古墳時代早期の建物がもう一棟近くに建てられていました。
大きさは1間×3間(3.2m×4m)で床面積は約13uです。
柱はSB-3と同様、角柱が使われていました。柱のサイズは23cm×20cmほどです。この柱もSB-3と同じく柾目が見えるように配置してありました。
柱の据え付け方法が「布掘り」方式と言って、桁方向に幅約50cm、深さ約25cmの溝を掘り、さらにその溝に柱穴を掘るやり方です。「布掘り」方式の祭殿は、弥生時代後期の下鈎遺跡(伊勢遺跡群の一つ)でも見つかっており、その技術集団の末裔が建てたのかも知れません。
SB-4はSB-2やSB-3と同時期に、見られることを意識して建てられた建物でした。
伊勢遺跡の方形区画内の大きな主殿の脇に、小型の掘立柱建物があり、倉庫と解釈されています。下長遺跡でも同様に、祭殿に付属する倉庫のようなものだったと考えられます。
布掘り方式の溝
SB-4 布掘り方式の溝と柱穴
布掘り方式の溝
布掘り方式の溝【守山市教委】

祭殿と船のある風景(イメージ図)
「びわ湖水運の一大拠点」の所に「港湾部のイメージ図」を載せましたが、港湾ではないかと思われる入江と祭殿は近い位置関係です。交易拠点としていろいろな土地からやって来る人たちに、壮麗な祭殿を見せて威厳を示すことが目的だったのではないでしょうか?
祭殿が川岸近くに立てられているのも、その荘厳さを間近に見せるためだったのでしょう。
舟が行き交う川と祭殿が見える風景を想像してみました。
舟と祭殿
舟が行き交う川と祭殿(想像図)(絵:中井純子氏)


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