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準構造船
下長遺跡が水運の拠点であったと判断する根拠の一つが、当時としては物資を多量に運ぶことができる準構造船の発見でした。
準構造船とは
縄文時代より丸木舟が水運に用いられていましたが、弥生時代になると、丸木舟の舷側(げんそく:船の側面)に板材を継ぎ足して容量を大きくする工夫が盛り込まれた「準構造船」が造られました。
これに対し、板材だけをつなぎ合わせた船を「構造船」と呼んでいます。
■ 丸 木 舟 ・・・・・ 一木を刳り抜いた舟 縄文時代
■ 準構造船 ・・・・ 丸木舟を船底にして、舷側板や竪板などの船材を加えた船 古墳時代
■ 構 造 船 ・・・・・ 骨組みと板材によって建造された船  現在の木造船   
河道
          船の構造 (図:守山市教委)
板材の結合技術が未熟なわが国では、この準構造船は長らく使われ、室町時代まで大型船の主流を占めていました。
下長遺跡で見つかった準構造船
弥生時代後期から古墳時代前期ころの準構造船の発見例は全国的にも少なく、大半がびわ湖周辺から見つかっています(前節参照)。
構造船全体が出土する例はなく、主に部材が見つかるだけで構造の詳細は分からないことが多いのです。
下長遺跡からは、舳先(へさき)部分と船底と舷側(げんそく)板が結合された部品が見つかりました。
これまで、船底と舷側板を結合する方法が明確に分かっておらず推定でしかなかったのですが、下長遺跡からの出土が全国初で、結合方法の詳細が判明しました。
準構造船の部品
     下之郷遺跡から出土した準構造船の部品 【守山教委】

船底部と舷側部には、四角形の孔をあけ、幅2.4cmの桜の樹皮を二重に巻き付けて結合し、緩まないように上下2か所に楔(くさび)が打ち込まれていました。
復元想像した大きさは、全長約6mで、縄文時代の丸木舟と大きさはさほど変わりません。
大阪の久宝寺遺跡から見つかった準構造船は全長約10mの大型舟です。 下長遺跡の準構造船はやや小ぶりです。
河川を経由し、下長遺跡とびわ湖畔を行き来していたのでしょう。
守山市では、赤野井浜遺跡でも準構造船の部品が出土しています。この部品は弥生時代前期から中期にと推定される、日本で最古の準構造船で、舳先と舷側板が見つかりました。
準構造船復元想像図
下長遺跡の準構造船復元想像図
出典:守山市史(考古編)

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