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威儀具
ムラやクニの中で人の階層化がされると、上に立つ首長は、身分の違いを示したり威厳を示すために特別な持ち物を使い始めました。
これらを威儀具と呼んでいますが、下長遺跡でも古墳時代に特有な威儀具が出土しています。
下長遺跡では、バライエティに富んだ数々の威儀具が見つかっています。
特に、卑弥呼政権が用い始めた威儀具が見つかっており、下長遺跡の性格を考える上で重要な遺物です。
威儀具(いぎぐ)とは
弥生時代中期、集落の中で身分の階層化が現れるようになり、またクニグニの間でもランク分けが生じ、首長の上に共同体の首長、さらにその上に大共同体の首長が存在する階層化が生じました。
そうすると、首長と一般民との違いを示すとともに威厳を表すために、首長は食事に杓子やスプーンを使い、手掴みで食事をする一般人と違いを演出しました。木製容器も同じような意味合いであると考えられています。
このような日常生活で用いる用品でありながら身分の違いを見せるための品物を「威信具」と呼んでおきます。一方、身分の高さを示すための用品や威厳を示すためのもの、例えば儀杖や団扇(うちわ)状木製品、衣笠などを「威儀具」と呼ぶことにします(「王権と威儀具」安土城考古博物館)。
威儀具・威信具は時代と共に大きく変わります。古墳時代に入ると初期ヤマト王権は中国の威儀具を導入し、それらをクニグニに配布することにより権威を示しました。すべてのクニに同じものを配布したわけではなく、国力やヤマト王権にとっての重要性に応じて品物を変えたり上質の品物(装飾性、文様)を区別しながら配布していました。威信具に階層性があるのです。
ヤマト王権の威儀具も古墳時代中期になってくると物が変わってきます。
ヤマト王権に従わない勢力に対しては軍を率いて征圧に向かいました。五穀豊穣を祈る首長から、戦う王へと変わっていったのです。このような王の変化に伴って威儀具も変わります。力すなわち武力を示す武器類が威儀具をなっていきます。
出土した威儀具・威信具

威儀具

下長遺跡では、他ではあまり見かけない威儀具が出ています。
【儀杖(ぎじょう)】
長さ1.2mの棒状で上部に円形の飾りをつけた木製品で、権力者が儀式のときに使った杖(つえ)だと考えられています。
材質はスギで太さは約4cmで木地のまま仕上げられており、保存状態は良好です。
あいにく柄の先はかけていますが、杖として用いるときに握り手にあたる部分がやや細く仕上げられていて、これから推測すると、杖としては2mくらいの長さがあったと思われます。
儀杖
儀杖 【守山市教委】

頭部は直径17cmの円盤状で中央には直径3.3cmの孔が開いています。円盤から上に向かって2本の角上の突起が出ています。円盤には2重の輪がレリーフとして彫り込んであり、そこから突起が反対側に潜りこんで伸びているシンプルでありながら特異な文様です。この文様は直弧文系統の組帯文で、古墳時代に権威を象徴するデザインです。文様そのものが権威を示しています。
この組帯文を持つ儀杖は他では見つかっていません。
儀杖の文様 組帯文
儀杖の文様 組帯文 【守山市教委】
首長の想像図
儀杖と刀を帯びた首長の想像図
(絵:中井純子氏)
【刀の柄頭と鞘尻】
ヤマト王権は、従わない勢力に対して武力を用い戦う王となっていきますが、各地の王も必然的に武人的様相を深めていきます。そのような王の象徴は武器となり、身に着ける刀剣は美しく装飾されたものとなります。
そのような刀剣の柄頭(つかがしら)が下長遺跡から出土しています。
木製の木地に黒漆を塗り、その上に赤漆で直線と円弧文を描いています。写真の左面と上面には区画文を描いています。
頭部は横から見ると長方形ですが上から見ると三角形になっています。
刀の柄頭
刀の柄頭 【守山市教委】
刀の鞘尻
刀の鞘尻(左) 【守山市教委】

柄頭の下の部分は二つ割になっていて、ここに刀剣の茎(なかご:刀を柄にはめ込む部分)を入れますが、刀身を固定する目釘穴が残っています。側面の文様は、四角の中に直角に交わる2本の直線を引いて4区画に分け、その直線に円弧が絡むように描かれています。
この文様は豪族の古墳の石棺や石枕、各種の器財や埴輪に描かれており、当時、最も尊重され重要視された権威ある文様でした。
また、刀を収めた鞘の端「鞘尻(さやじり)」も出土しています。上の柄頭と対になっていたものではありませんが、刀の構造が判ります。
この柄頭と鞘尻を基に復元想像した刀を示します。

刀の復元
刀の復元想像図 【守山市教委】

【団扇状木製品】
古墳時代に使われた団扇(うちわ)の柄(え)にあたるところだけが2本見つかっています。
下の写真の左側の団扇の柄は、長さが約17cmで握り部は円形で太さが約2cm、両端に行くほど楕円形で太くなっていきます。
本来、柄の上には扇とそれを把持する部品があって、そこに絹や羽の扇部分が取り付けられます。
古墳に描かれた団扇は、現代の団扇の柄を伸ばしたような形をしており、「扇」というよりは、顔を隠す翳(さしば)として使われていたようです。
翳とは「上代、天皇の即位または朝賀などの大義に、高御座に出御、群臣の拝賀を受ける際に左右から差し出し、顔を翳(かざ)すもの」とされています。
もともとは、宗教具として中国・朝鮮半島より伝わり、日本では、威儀具として使用されました。
団扇状木製品の出土例は少なく、纏向遺跡から複数の出土がみられます。その他は要衝に位置する遺跡から出土しており、ヤマト王権とのつながりを示すものと考えられます。
団扇の柄
出土した団扇の柄
【守山市教委】
団扇の形状
団扇の形状
(絵:守山市教委)
高松塚古墳の団扇

高松塚古墳の団扇
(絵:田口一宏)

威信具や祀りの道具

【素文鏡・銅鏡】
銅鏡は通常、古墳など権力者の墓に埋葬されている場合が多く、集落からはほとんど出ないのですが、守山市内ではいくつかの集落遺跡(伊勢遺跡、服部遺跡など)から小型鏡が発見されています。
下長遺跡からも4点の銅鏡が、溝跡や大きな穴から発見されています。
3点は素文鏡と言って背面に文様のない小さな鏡です。人の姿を映すようなものではなく、儀式のときに使ったのでしょう。鏡の直径は、写真左から、37mm、26mmの円形および18mm×14mmの楕円形です。一番小さいものは鏡というより飾り物の部品だったもしれません。
写真左の鏡は小型重圏珠文鏡で良好な状態で出土しており文様を細かく観察できます。この鏡も溝のそこから出てきました。
小型鏡
小型鏡  左:重圏珠文鏡  右3個:素文鏡 【守山市教委】
古墳に埋納される大型の銅鏡と集落で発見される小型鏡にはどのような意味合いがあるのか興味深い点です。

【美しい装身具:石釧・管玉・小玉】
弥生時代中期以降、野洲川下流域では管玉や小玉の玉作りが行われていました。この時代、玉の原石は碧玉やメノウなどの硬い石でした。
古墳時代前期にはこの玉作が全市的に中止になります。
下長遺跡からも管玉が出ていますが、材質は柔らかい滑石で、古墳時代中期になって多量生産されるものです。
その滑石製の管玉、勾玉、小玉が溝や旧川道から出土しています。遺跡のあちらこちらから、多いところで8個がまとまって、後は1個、2個と言った出土状況です。
内8個の管玉は小型素文鏡、銅鏃と一緒に出ており、儀式の後、捨てられたものと考えられます。
管玉は割と多くの遺跡で見つかりますが、下長遺跡ではこの時代めったに見られない石釧が出ています。
石釧は、碧玉製でドーナツ型の外周部分に溝を刻んだもので、出土した物は破片になっています。
当時は簡単には入手できない希少価値のあるものだったらしく、破片に小さな穴をあけ補修して使っていたようです。
石釧や管玉・小玉
出土した石釧や管玉・小玉 【弥生文博・守山市教委】

祭祀に用いられるもの

【木製品】
下長遺跡の中心を流れる川跡や大きな穴の中から舟形や刀形、農具形などの木製品が出てきます。
川跡から出てくる木製品は、遺跡南部の祭殿周辺の祭祀域で行われた水のまつりの後で川に流されたものがあちらこちらに流れ着いたものかもしれません。
また、遺跡南部では大きな穴の中に舟形木製品が入れられているのが見つかっています。この区域は方形に区切られた場所であり、遺跡の西端でも水のまつりが行われていたのかも知れません。
舟形木製品
舟形木製品 【弥生文博・守山市教委】
刀形やいろいろな形の木製品
刀形やいろいろな形の木製品 【弥生文博・守山市教委】
【特殊な土器】
古墳時代初頭の特殊な祭器として手焙り形土器があります。近江発祥の祭器と考えられていますが、下長遺跡からは原型を留めているものが1点、砕片になっているものの製品個数としてカウントできるものが7点見つかっています。
服部遺跡の50個には比べるべくもありませんが、野洲川下流域ではとても多い方です。
祭祀に用いたと考えられる水鳥の形をした土器も見つかっています。
手焙り形土器
手焙り形土器 【守山市教委】
水鳥を模した土器

水鳥を模した土器
【弥生文博・守山市教委】
【やまと琴】
古代の琴は弥生時代の遺跡から散発的に見つかっていますが、数は多くありません。
古墳時代に入ると、近江・畿内・東海を中心に出土数が増えてきます。
特に守山市・栗東市を含めた野洲川下流域で多いのですが、下長遺跡からも見つかっています。
用途ですが、ヤマト王権の葬送儀礼で使われたのではないかと言われています。
古代の琴にはいくつかの構造があるのですが、下長遺跡では琴板と、共鳴漕の一部が見つかっており、服部遺跡と同じ構造の槽作りの琴になります。
出土した琴板
出土した琴板 【守山市教委】
槽作りの琴の復元

槽作りの琴の復元 出典:守山市誌(考古編)

琴板の長さは全長約110cm、琴尾の幅が40cmです。琴板には3か所に穴が開いており、桜の樹皮が残っていました。共鳴漕と琴板は桜の樹皮で固定する構造でした。
【朱塗りの盾】
守山市の弥生時代、古墳時代の遺跡から盾が結構多く出土しています。
盾は弥生時代早くから戦争の時の防御の武器として出現しますが、弥生時代後期、古墳時代になるにつれ、儀式用の盾に変わっていきました。
下長遺跡から見つかった盾は他の遺跡からのものと同じように、ちいさな穴が規則正しく開けられており、ここに糸を通して強化していました。いくつかの盾には朱が塗ってあり、防御の呪いとか装飾のためとか考えられています。
朱色を塗った盾
朱色を塗った盾 【弥生文博・守山市教委】
【銅鐸の飾耳】
祭殿の北約100mの旧川筋のそばから銅鐸の耳が出土しました。大きさは、幅が6.4cm、高さが3.5cmで、近畿式銅鐸に付く飾り耳を切り取ったものです。
耳の大きさから銅鐸本体は約70cmの銅鐸と考えられます。下長遺跡で見つかった銅鐸の飾耳に対応する銅鐸は見つかっていません。
銅鐸は非常に硬く簡単に割れるものではありません。過熱して柔らかくし切り取ったものと考えられます。
銅鐸祭祀が終わった後に、意図的に切り取って所持していたのでしょう?
目的は分かりませんが、飾りや護符として持っていたのか、銅鐸祭祀を諦めきれなかった人が隠し持っていたのか、あるいは、銅鐸本体はどこかに埋納し飾耳を地元で埋めたのか? 
このような銅鐸の耳は少なからずみられ、纒向遺跡でも見つかっています。
銅鐸の耳
銅鐸の飾耳 出典:守山市誌(考古編)
【円筒埴輪】
本来、古墳に設置する埴輪が、銅鐸の飾耳が見つかった近くの旧川道川岸から出土しました。広大な下長遺跡でも、埴輪はここからしか出ていません。
専門家の鑑定によると、古墳時代に多く作られる円筒埴輪と比べると、作り方の技法が違っていて珍しいものだそうです。
ということは、古墳に多量に設置するために作られたものではなく、試作なのか祭祀用に特別作ったのか? 謎の多い埴輪です。
円筒埴輪
円筒埴輪 【守山市教委】
権威の文様
刀の柄頭に施された直弧文は、古墳時代の文様として最も尊敬され重要視された文様で、権威の象徴と言えます。儀杖に施された組帯文もこの流れを汲みます。
直弧文は、纏向遺跡で見つかった弧文円板に施された弧帯文に由来することが明らかになっており、それまでの縄文系や大陸系の伝統的な文様と全く異質な文様として誕生しました。
そうしてこの時代の最も重要な文様として扱わられるようになったものです。
この文様が下長遺跡で見つかった刀の柄頭に施されていました。
弧帯文から直弧文へ
弧帯文から直弧文へ 【橿考研・守山市教委】

文様とは別に、権威を示す形状がありました。
それは、玉杖や琴柱形石製品の角状突起で、重要視された形状です。
守山市埋蔵文化財センターの岩崎茂さんによれば、下長遺跡で見つかった儀杖に施された組帯文は、権威の文様:弧帯文と権威の形状:角状突起を組み合わせ、シンプルにデフォルメしたものなのです。
これも卑弥呼政権の権威の象徴なのです。
このように下長遺跡の威儀具・威信具を眺めてみると、権威の文様を施した威儀具は他所では
あまり見られないものであり、それが複数見つかっています。
また、首長の居館、大型祭殿、いろいろな祭祀の組み合わせがそろって出てくるのもあまりありません。
このように見てみると、単なる首長ではなく、近江の首長共同体の中核となり纏向の卑弥呼政権と直接つながるような首長であった可能性があります。
権威の文様と権威の形状
権威の文様と権威の形状 【橿考研・守山市教委】

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