ヘッダー画像
下長遺跡はどんな遺跡
下長遺跡自体については次節で述べますが、どのようにして発見され、発掘調査が行われたか、また、立地などについて説明します。
下長遺跡と係わりがあったと考えられる周辺遺跡についても紹介します。
遺跡の発見と広がり
昭和51年、守山市内にどのような遺跡があるのかを調べる遺跡分布調査が行われました。
その時、古高集落の南側に遺跡が存在することが判りましたが、その時点では、発掘調査は行われず、 遺跡の存在が確認されただけでした。
昭和58年、ここに工業団地を造成することが決まり、工場建設に先立って発掘調査が行われたのです。これを契機に工場建設のたびに発掘調査が行われ、遺跡の全貌が明らかになってきました。
工業団地一帯にほぼ重なるように、縄文時代から平安時代の集落跡が発見されました。
古高工業団地の造成はこれが初めてではなく、昭和46年にも南側で大規模な第1期工業団地の造成が実施されていました。
昭和46年当時、遺跡の存在は判っていませんでしたが、開発地域に3つの古墳が残されており、これら古墳は保存されました。他にももっと多くの古墳があったのかも知れません。
昭和58年、第2期工業団地造成が始まった同時期、東側に隣接する地域でも遺跡の発見がありました。これが塚之越遺跡で、方形周溝墓が多く見つかっており、下長遺跡の墓域と考えられています。
このホームページでは、塚之越遺跡も下長遺跡の範囲に含めて扱います。
下長遺跡は工業団地の造成で見つかった遺跡ですが、発掘調査が進むにつれ造成地の範囲外にも遺構が広がっていることが分かりました。詳しくは後ほど出てきますが、造成地範囲外の遺構は、下長遺跡としても周辺部に当たっており、遺跡の中心部は造成地の中央に当たります。

河道と遺跡

工業団地と下長遺跡 出典:発掘調査報告書より作成
発掘調査の面積と期間
下長遺跡は分布調査で見つかっていましたが、第2期の工業団地造成に伴い始めて発掘調査された遺跡です。
ただ、工業団地造成時に発掘調査が行われたわけではなく、工場建設時に基礎工事や埋設施設などの地下工事が行われる時に遺跡発掘が行われました。
発掘調査の範囲
工場建設と発掘調査

このような工場建設は一気に行われたのではなく、断続的に行われました。また、工場建設の敷地全体が発掘調査されたのではなく、地下の遺構が工事対象となるときに発掘調査が行われたのです。
上の図で着色部分が発掘調査された箇所で、白抜きの場所は発掘調査されていません。このような場所は、道路であったり駐車場であったりして、地下の遺構が壊されることはないところです。
工場建設と言う性格上;
・広大な面積が発掘された
発掘面積は、平成元年の第1次発掘調査から平成9年の第18次発掘調査までで
   開発面積 67千u  発掘調査面積 51千u  に達しました。
その後も工場建設が進み、平成20年の第23次開発までで、
   開発面積 122千u  発掘調査面積 99千u  となりました。
・比較的短い年数で発掘調査が実施された
上記面積が9年間で発掘調査されました。
守山市の他の遺跡(服部遺跡を除く)は長年にわたり小面積の発掘が積み上げられています。
伊勢遺跡や下之郷遺跡などは30数年、100次を超える発掘調査が行われ、現在でもその一部 が明らかになっただけで、全貌は明らかになっていません。
服部遺跡は洪水対策の放水路開削工事であったため、120千uという広大な面積が5年間で発掘調査されましたが、下長遺跡は、これに次ぐ短い期間で広大な面積の発掘調査を行いました。
下長遺跡の地形
下長遺跡が最も栄えるのは弥生時代後期から古墳時代早期の時代ですが、集落として栄え、また衰退していくのは地形的な要因が働いています。
ここで下長遺跡の地形を眺めてみます。
野洲川下流域で弥生遺跡がある場所は米作りと密接に関係しています。初期の米作りはびわ湖岸や川筋の低地で始まり、米作りの技術が少し上がると内陸側の氾濫原に広がっていきます。さらに弥生時代後期になると、拠点集落はより内陸側の扇状地に移っていきます。
ところが、野洲川下流域の拠点集落である下長遺跡は氾濫原のしかも標高が低い位置に集落が営まれているのです。
拠点集落と位置
拠点集落と位置

「ホーム/トップページ」で述べたように下長遺跡の北側には野洲川の分流の一つである境川が流れていましたがその支流(川幅約20m)が下長遺跡の中央を東から西に向かって流れていました。 遺跡の南側には自然堤防が川に並行して形成されています。ここはやや微高地になっており、上図のように方形周溝墓や古墳が築かれていました。
拠点集落で、なぜ下長遺跡が低地に営まれるのか? この点が発掘調査者を悩ませていたのですが、後になって分かったことは、ここがびわ湖水運の拠点であったからです。

下長遺跡の地形

下長遺跡の地形

下長遺跡が衰退していくのもこの川の存在と関係し、後ほど述べますが、川の埋没に伴い水運拠点でなくなっていきます。
周辺遺跡とのかかわり
弥生時代後期後半、伊勢遺跡が盛隆を極めていたころ、下長遺跡が水運拠点として勢力を伸ばし、伊勢遺跡が廃絶した後、古墳時代早期にさらに栄えていきます。
下長遺跡と周辺遺跡分布
下長遺跡と周辺遺跡分布
出典:守山市史(考古編)

下長遺跡と周辺遺跡の年代
下長遺跡と周辺遺跡の年代

伊勢遺跡のホームページに書きましたが、伊勢遺跡と下鈎遺跡、下長遺跡はそれぞれが祭祀、工業、流通・商業を分担して機能した「伊勢遺跡群」を構成していました。
いわば、都市機能を分担する先進的な集落群でした。
伊勢遺跡と下鈎遺跡は弥生後期末で衰退しましたが、下長遺跡は古墳時代になってからも、卑弥呼政権とつながりを持ち一層栄えていきます。
上図のように、下長遺跡の周辺にいくつかの墓域があります。これらが直接、下長遺跡と関係していたかどうかは判りませんが、塚之越遺跡の墓域は下長遺跡の盛衰と一致しており、下長遺跡の墓域と判断できます。

top tugi