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縄文時代〜弥生時代中期
野洲川下流域では、比較的安定して食物採集がしやすかったびわ湖湖岸周辺に縄文遺跡が現れ、
中期になると内陸部へ進出していきます。
下長遺跡でも縄文・弥生時代の人々の営みを垣間見ることができます。
縄文時代の下長遺跡

縄文遺構・遺物

縄文時代中期には、野洲川下流域の内陸部、下長遺跡、塚之越遺跡の周囲2kmの範囲に5〜6か所に遺跡が分布しています。縄文人はこの辺りをテリトリーとし、定住して大きな集落を作ることはなく移り住んでいたようです。
移動生活をしていたようなので、下長遺跡で見つかる縄文遺跡の密度は低いのですが、縄文遺跡が見つかる所は、下長遺跡が繁栄した弥生後期〜古墳前期の遺構がほとんど出ない場所です。縄文時代〜平安時代の遺構が同一面で切り合っており、見方を変えれば、縄文遺跡があったとしても後世に破壊された可能性があります。
下長遺跡で見つかった縄文遺構・遺物は少ないのですが、バラエティに富んでおり、縄文人の生活の一端を垣間見ることができます。

竪穴住居と石囲い炉

下長遺跡の西端で3棟の竪穴住居が離れた場所で見つかっています。また、隣接する塚之越遺跡でも3棟見つかっています。
石囲い炉 深鉢
竪穴住居 【守山教委】 石囲い炉(左) と 深鉢(右)【守山教委】

下長遺跡で見つかった建物跡の一つは、直径4.5mの4本柱の円形竪穴住居です。
ここからは、県内でも珍しい石囲い炉が見つかっています。石囲い炉はこぶし大の河原石を一辺50cmの大きさに四角く並べたもので、内側には多量の炭が堆積していました。ここで食べ物を焼いていたようです。
竪穴住居床からは土器や石器、サヌカイト剥片が見つかっています。

石器類

縄文時代の石器は少ないのですが、磨製石斧や石鏃などが見つかっています。
また、縄文時代の祭りに用いられた石棒も下長遺跡、塚之越遺跡から数点見つかっています。
石器類 サヌカイト集積遺構
石器類 【守山教委】 サヌカイト集積遺構(塚之越遺跡)【守山教委】

石棒は男性器を模したもので、縄文中期にかけて発達し大型化しますが、縄文晩期にかけては小型化します。形も棒状に退化し、石棒の祭りは終わることになります。下長遺跡は縄文晩期にあたり、見つかった石棒は小型化・扁平化していました。
塚之越遺跡からはサヌカイトの集積遺構が見つかっています。サヌカイトの道具を作るための原材料を保管していたところです。この原材料からいろいろな石器をこの場所で作っていたようです。

土壙墓

縄文時代の集落の一角から土坑群が見つかりました。15m四方に土坑が並んでおり、方形で箱型の土坑です。
大きさは、多くのものが長辺110〜155cm、幅60〜110cm、深さは10〜20cmで、深さは後世の平削もあって当時の実際の深さは分かりません。
これらの土坑は、形状や規模から考えて土壙墓と考えられます。図中、小さなSK40は中に甕(かめ)が入っており、土器棺墓と言えます。
土壙墓はいくつかのグループに分かれますが、平行に並べるというルールがあったようです。
配置の仕方を見ると、ここはある期間、継続的に墓所として使われたようです。
西日本の土壙墓の並べ方は各群が環状に配列されることが多く、平行・並列の配置は数が少ないです。
縄文の土壙墓群
縄文の土壙墓群 出典:下長遺跡発掘調査報告書

食料

縄文時代には、下長遺跡の北から南に向けて幅20m程度の川が流れていました。
その川は年の経過とともに埋もれていくのですが、縄文時代に相当する層からトチノキ種子が集中して見つかっています。これは種皮が人為的にはがされており、その破片が積み重なって平坦に潰れた「トチ塚」状態になっていました。トチノキの種子が食用にされていたことが判ります。
また、周辺から食用のための打痕跡のあるクリ類の殻やクヌギ、イチイガシの破片が見つかっており、当時の人々が食用にしていたことが判りました。
また、栽培植物であるヒョウタンの仲間、えごま、さらには、ササゲ、ダイズなども栽培していたことが推測されます。
また、この川沿いにいくつかの土坑が見つかっています。
イチイガシとオニグルミ
イチイガシとオニグルミ【守山教委】

一つの土坑(直径1.2mの円形、深さ0.7m)から、いろいろな堅果類の実が見つかりました。数量的には多くなく、貯蔵用に蓄えていたものを取り残したものと考えられます。
ほとんどがナラガシワですが、少量ながらトチノキ、オニグルミ、クリ、ムクノキなども見つかりました。ナラガシワは完全な形を保っており、果実として貯蔵されていたと考えられます。
近畿地方ではナラガシワの貯蔵は例が少なく、初めての発見です。川のそばに自生していたのでしょう。
日常生活の中で、食料の貯蔵は余剰の貯蓄であり、定住生活の始まりを示しているようです。

モミの圧痕のある土器

稲作と言えば、弥生時代から・・・と言われていますが、縄文時代にも稲作が行われていたという説があります。稲には特有のプラントオパールがあり、ガラス質の物体なので腐敗することなく残ります。遺跡から稲のプラントオパールが見つかると、そこにはかって稲籾があったという証拠になります。
縄文時代の遺跡から稲のプラントオパールが見つかることがあり、これが、縄文時代の稲作の根拠になっています。ただ、どのようない米作りであったのかは分かりません。自生していた野生の稲なのか栽培されていたのか、分りません。水田稲作の痕跡は見つかっていないのです。
野洲川下流域で稲作が始まったころ、縄文土器だけが見つかる集落と縄文土器と弥生土器が見つかる集落が混在していました。
  詳細は 「野洲川下流域の弥生遺跡」の 「弥生以前の野洲川下流域」をご覧ください。
モミの圧痕のある縄文土器
モミの圧痕のある縄文土器【守山教委】

下長遺跡の縄文晩期の遺構から、モミの圧痕のある土器が見つかりました。
この辺りから弥生土器は見つかっていません。このことから、下長にいた縄文人が稲作を始めた弥生人から籾をもらったのか、あるいは稲作を習って自分たちで作った籾なのか、分りませんが、縄文人とお米の関係を示す証拠として興味深いものです。

外来土器

下長遺跡から見つかる縄文土器を見ていると、縄文中期にはこのあたりの土器しか見つかりません。
しかし、縄文晩期になると東海系の特徴を持つ土器や東日本系の特徴を持つ土器が見つかります。
下長遺跡では縄文晩期には遠方との交流があったことが分かります。
弥生時代中期の下長遺跡
弥生時代中期の遺構としては、竪穴住居が分散して数棟、掘立柱建物が3棟見つかっているだけで、建物跡からの出土品も僅かです。
竪穴住居は直径8mの大きなものや長方形型の建物跡など珍しい形状のものが見つかっています。
集落を構成するような遺構にはなっていないのですが、弥生土器は数多く出土しています。
直径8mの竪穴建物は一般住居としては大きく、当時小さな集落があって共用の建物として使っていたことも考えられます。しかし、周囲には小型の竪穴住居は見つからず、集落跡は後世に壊されたのかも知れません。

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