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遺跡を流れる河道
下長遺跡は、伊勢遺跡が最盛期を迎える弥生時代後期の後半に現れます。ここはびわ湖水運の拠点として、また、おそらく伊勢遺跡との連結を目的として、当時の大きな川である境川の支流に造営されました。
しばらくして、弥生後期は幕を閉じ、伊勢遺跡は終焉を迎えますが、びわ湖水運を担った下長遺跡は古墳時代早を通して水運一大拠点として栄えます。
しかし、川筋の変化に伴い水運拠点として機能しなくなり、衰退していきます。
発掘結果から判る川道
発掘調査結果から2本の川が遺跡を流れていたことが分かっています、一つは、幅30m程度の川で遺跡の中央部を南から北方向へ、もう一本は遺跡の北部を幅20m程度の川が東から西へ流れていました。
河道
河道と遺跡 出典:発掘調査報告書より作成(田口)

2本の川を、便宜上、南流、北流と呼んでおります。
2本の川の西側は、頻繁に流路を変えており、幅広い川ではなく幾筋ものクリークが並んでいるような形になっています。
また、いつの時点からかは分かりませんが、2本の川は途中で結合されていたようです。
川筋の変化と水運

弥生時代後期〜古墳時代早期の川筋

川の流れの変化を見てみます。下に川の流れの模式図を示します。
発掘した時の川底の砂利や土の様子から、水が流れていたのか、激しい流れだったのか、水が停滞気味だったのか、などが分かります。また、堆積物の土質や含まれている土器などから堆積層の年代が推測できます。

野洲川は長い歴史の中でその流路を頻繁に変えていました。川の堆積物の層から判断すると、図に示した境川の支流は、弥生時代に生まれ弥生時代後期には2本の川が流れていたようです。
川の流れ
弥生時代後期〜古墳時代早期の川の流れ

便宜上、上方(北側の流れ)を R21〜R22 とし、下方(南側の流れ)を R11〜R12、2つの川を結ぶ流れを R31 とします。南流のR12は図では大きな1本の川のようですが、川幅が狭いクリークが数本流れていて、それらも絶えず流れる場所を変えていたようです。
首長の居館、祭殿、発見される重要な遺物、倉庫と思われる建物群などの位置から判断すると、弥生時代後期に水運用に使われたのは、上の図の、南流 R11 ⇒ R12と思われます。

古墳時代前期〜中期

これらの川は、古墳時代前期には水位が下がって埋没し始め、古墳時代中期によどんだ川のようになり、後期にはほとんど埋まっていたようです。
当時の川の流れの勢いを推定することは困難ですが、川跡の状態から判断すると、古墳時代になってもR21とR22には水が流れていたと判断できます。他の流路は図左のように水量が減り、古墳前期には図右のように沼沢地化していったりしたようです。
川の流れ
古墳時代前期の川筋
川の流れ
古墳時代中期の川筋

出土物の量から川の流れを推測

川の流れの変化は、川跡から見つかる遺物の量からも推測できます。
土器、木器の出土状況から判断すると、当時、まだ流れの勢いがあったR21やR31には物を捨てず、水流が停滞または沼沢化していた他の川跡に不用品を捨てたのではないでしょうか?

川跡から見つかる土器・木器の割合
北流(22次) 南流&結合流(17次)  南流(12次)
 R21 R22 その他 計 R11 R31 その他 計 R12(数条)
 土器 0% 30% 70% 100% 95% 0% 5%100% 多数
 木器 1% 98% 1% 100% 95% 0% 5%100% 多数
注1:H次を横にしたような川の流れで、川の上流側(例:R21)と下流側(R22)および
   その他の区域からどのような割合で、土器や木器が出土しているかを割合で示す
注2:その他とは:建物跡や土坑など

上の割合に影響する他の要因として、周辺にどれだけの住居があったかも関係しています。
R21やR31の周辺には住居が少なかったことも出土量が少なくなる傾向となります。

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