首長の居館と祭祀
下長遺跡でひときわ大きい建物が、区画溝で囲われたエリアに建てられます。首長の居館と考えられており、その様子を見ていきます。
首長の居館とは
古墳時代になると、各地の首長・豪族が自らの財産を守るための空間を設け、柵や溝で区切ってその中に居所や祭祀場、倉庫などを設けるようになります。弥生時代の環濠内集落に似ていますが、古墳時代の居館は首長やその身内、上位者のための区画で、集落から離れた場所に特定区画として設けられている点が異なります。
初期の居館は区画内に、居所、祭りごと(政治)の場、倉庫、手工業生産拠点などを包含したものでしたが、クニの力が大きくなり権威付けや聖域化のために、居所、祭りごと、祭祀場を分離するように なっていきます。
王の居館の最初の例は、昭和56年に群馬県の三ツ寺T遺跡です。堀に囲まれた広大な敷地の中に、さらに柵で囲まれた大型建物をはじめ多くの建物が整然と並んでいました。
大阪府立弥生文化博物館が催した平成14年秋季特別展「王の居館を探る」では次のように「居館」を定義しています。王の居館の特徴は;
1.堀や策で区画された特別な空間である
2.区画の平面形は方形ないし長方形が多い
3.区画内には建物がある
4.区画内の建物や特別な施設は、王の生活の場や政治の場、まつりの場、手工業生産の場など、 それぞれの役割
に分かれている
5.王の権威を表す道具やまつりの道具が出土する
6.存続期間が短い
などが挙げられています。
下長遺跡の首長の居館
居館の構成
王の居館として上に書かれた特徴は、時代が進むにつれ、権威の誇示、聖域化などのため、分離されていきます。下長遺跡の居館は、この分離された構成になっています。溝で囲われた方形区画に、大型建物や多くの建物が並んでおり、王の生活の場や政治の場と考えられます。水の祭祀の場は、そこから西方の離れた場所に見つかっています。まつりごとの場は、居館の南方に祭殿が建てられていました。
王の権威を表す道具やまつりの道具は、溝や旧川道からいろいろな物が見つかっています。
居館と関連施設 出典:王の居館を探る(弥生文博)
居館域の様子
溝で区画された空間が見つかり、その中から規模の大きい建物1棟と10数棟の建物跡が見つかりました。これらの掘立柱建物は、建物の軸方向によって大きくは2つの群に分けられます。
時期的には、黄色で示した建物群が古く、オレンジ色の建物がそれよりは新しい建物群です。
これらの群に属さない建物もあり、違う目的の建物だったと思われます。
同じ群の建物でも重複がみられ、建て替えられていたことが分かります。
首長の居館域の建物群 出典:発掘調査報告書より作成
1期の建物群の中では、SB-1が一番大きく、これが首長の居館本体と思われます。
建物は、2間×3間(5.5m×7m)の柱構成で床面積約40uの大型建物です。柱穴の状況から、この建物はバルコニー付の建物であった可能性があります。
2期の建物群ではSB-2が最も大きく、2間×3間(4.4m×5.5m)の柱構成で床面積約24uの建物で 建物軸は南北方向に一致しています。これと同じ軸方向の小型建物10数棟が見つかっています。
居館(SB-1)の柱穴配置 出典:発掘調査報告書 |
居館の発掘状況【守山市教委】 |
居館は2間×3間のしっかりした柱穴が残っていますが、西側に同じ柱間隔でほぼ同じ大きさの穴が対で見つかっています。南北方向が1間幅であることから、これは露台(バルコニー)か庇(ひさし)が 付いていたのではないかと考えられます。
居館域の第1期の建物の配置イメージ図を示します。
居館域イメージ図(絵:中井純子氏)
祭祀場
遺跡の西側に祭祀の場と考えられる区画があります。また、前節述べた祭殿域も祭祀の場と考えます。もう一か所、水のまつりを行ったかもしれない「井泉」と考えられる遺構もあります。
一つの遺跡に複数の祭祀域があることになりますが、異なるまつりをしていたと考えます。
祭殿は「見せる祭祀」、西側の祭祀場は密かに行うことに意義がある祭祀、具体的には水のまつりが考えられます。井泉も水のまつりですが、異なる時期だったのかもしれません。
祭祀場の位置と遺構 出典:発掘調査報告書より作成 写真【守山市教委】
西側のまつりの場
下長遺跡として最初に発見された遺構ですが、北側の数本の流路付近で多くの自然木が見つかった以外は、ほとんど遺構・遺物が見つからない空閑地で、集落の外れと考えられます。しかし、そのような閑散とした場所から、思いもよらない祭祀具がいくつも見つかったのです。
2つの土坑に祭祀具が埋められていました。
一つは調査区北部の流路のそばの土坑です。そこから舟形形代、素文鏡、土器が出てきました。形代を、鏡と一緒に土坑に埋めることは祭祀と考えて間違いないでしょう。この土坑は湧水点に達していました。
南側の土坑からは竪杵が出てきました。この領域は方形に区切られたエリアでわざわざ杵を埋めています。
2つの土坑に共通なのはすぐ近く掘立柱建物があることです。祭祀用の仮建屋と考えられます。
古墳時代の水の祭祀としては「導水施設」が挙げられますが、服部遺跡の導水施設、その先例とも考えられる伊勢遺跡の導水施設共に集落外れの人目につかない場所にあり、服部遺跡の導水施設は外部から見えないように覆い屋が設けられていました。
水のまつりは首長や「カミ」への儀礼を密やかに行う神聖なまつりで「見せるためのまつり」ではないのです。
空閑地に設けられた「土坑+埋められた祭祀具+建屋+区画溝」は、石野博信氏が定義された4つの祭祀型のうちの纏向型祭祀と言えます。
舟形木製品【守山市教委】 |
大きさ 左:37mm 右:26mm 素文鏡【守山市教委】 |
祭殿
祭殿についてはすでに述べていますが、見せる建物で首長が威儀具を伴い、見せる祭祀を行ったと考えます。具体的にどのような祭祀が行われたのか分かりませんが、下長遺跡で見つかった威信具・威儀具が権威を顕示するために使われたことでしょう。
井泉祭祀
遺跡北側にある墓域の近くの旧川筋のそばに大きな土坑があり、その中から祭祀具がいくつか出てきました。土坑は不整円形、直径約4mで深さは1.4mで湧水点に達していました。遺跡から土坑は数多く見つかりますが、この土坑は圧倒的に大きく、湧水点に達することから井戸とみていいでしょう。中から、団扇状木製品や盾、下駄、刃部に鋸歯状の線刻を施した刀形など特異な遺物が出土しています。 湧水点に達する土坑で行われる祭祀は、「井泉祭祀」の可能性があります。