出土品
下長遺跡からの出土品についてみてみます。威儀具はすでに述べたので省きますが、多くの木器が
出土するのが、この遺跡の特徴です。
土器
広大な遺跡なので多くの土器が出てきます。当時の人たちがどのような土器を使っていたのかが、見つかった土器の統計データで分かります。
土器の種類が分かる765個の土器の分類は次の通りです(12次、17次、18次、22次)。
壺にしろ、甕にしろ、もっと細分化した種類がありますが、ここでは大きく括っています。
25% | 37% | 17% | 8% | 10% |
このデータは下長遺跡で見つかった伝統的な土器の統計です。 韓式土器が出てきますが、ここには含んでいません。
石器
弥生時代後期後半から古墳時代前期の下長遺跡からは、ほとんど石器は出てきません。威儀具の「美しい装身具:石釧・管玉・小玉」で紹介した石器類以外には、有孔円盤が2個、紡錘車が2個、剣型石製品が1個見つかっています。
また、水銀朱の調合に使った石杵が出ています。朱には魔除けや不老不死の効果がると信じられており、朱を作る道具は権威の象徴でもありました。
塚之越遺跡のお墓から、立派な琴柱型石製品がでています。墓域のところで紹介します。
【守山市教委】 |
金属器
金属器はほとんど出土しておらず、威儀具のところで紹介した、小型鏡、銅鐸の耳の他に銅鏃が数個見つかっています。この当時、銅鏃も祭祀具だったかも知れません。塚之越遺跡のお墓から、鉄の斧が数点出土しています。木材の加工痕を見ていると鉄器が多用されていたようですが、下長遺跡は低湿地帯のため腐食して消えてしまったようです。
塚之越遺跡は、自然堤防の微高地に造墓され湿気の影響が少なかったので、幸い残されたようです。
墓域のところで紹介します。
木器(祭祀用は前出)
下長遺跡は自然堤防と川の間の低地に営まれており、また、旧川道に多くの木製品が廃棄されたため、木器は酸素を遮断した泥水に護られ腐敗することなく原型を保って数多く出土しました。出土する木質遺物の半数以上は自然木や加工の痕跡の無い木片ですが、用途の分る木製品も数多く見つかっています。
12次、17次、18次、22次発掘調査で見つかった用途の分る木製品のいくつかを紹介します。
その他の発掘調査区域でも多量の木器が出土していますが、データとして含んでいません。
用途・名称が分かる物 | 加工度の低い板状のもの | 加工度の低い棒状のもの |
383点 | 526点 | 549点 |
農具
稲作が始まった弥生時代以降、水田や畑を耕す農具は主に木で作った鋤(すき)や鍬(くわ)が使われました。下長遺跡でも多くの農具が出ています。完全な形を残しているものは少ないのですが、種類の分るものは次の通りです。鍬 | 鋤 | 泥除け | 横槌 | 竪杵 | 木錘 | 田下駄 |
22点 | 10点 | 11点 | 9点 | 6点 | 17点 | 7点 |
出土した農具 【守山市教委】 |
いろいろな形の鍬と鋤【守山市教委】 |
【鍬(くわ)】
鍬は土を掘り起こす農具で、直角に近い角度で柄が付けられており、それを打ち下ろして水田を耕すときに使われた農具です。田仕事の内容に応じていろいろな形の鍬を使い分けていました。
・新しく田を開くとき:狭鍬
・田を耕すとき:広鍬
・土をならすとき:又鍬、横鍬
また、ぬかるんだ水田を耕すとき、泥が飛び散らないように泥除けの付いた鍬を使いました。泥除けは薄い作りなので割れやすかったようで、割れた板に小さな孔を開けて繕って使っていたものが出ています。大切に使っていたことがよく分かります。
・田を耕すとき:広鍬
・土をならすとき:又鍬、横鍬
修理された泥除け 【守山市教委】
【鋤(すき)】
鋤は、田に水を引くための水路や畦(あぜ)をつくったり、田の荒起こしなど土を掘り返したりするときに用いられました。一本の木から作る一本鋤や先端部と柄を組み合わせる組み合せ鋤がありました。
先端が二股に分かれ全体の形がナスビに似たナスビ形着柄鋤などがあり、目的に応じて使い分けられていました。
【木錘(もくすい)】
稲わらを使ってムシロを編むときに使う錘(おもり)です。編台の目盛板とそれを支える架台、そこに経糸(たていと)を吊るすために木製の錘が使われていました。経糸の両端に木錘を付けるので、2個がセットになります。経糸を一定間隔に保つために、V字形の溝を付けた目盛板が用いられました。下長遺跡からもこの目盛板が出土しています。
【横槌(よこつち)】
稲わらは固くて柔軟性に乏しいため、横槌で叩いて繊維をほぐし柔らかくします。稲わらを柔らかくすると、縄をなったりムシロを編んだりすることができるようになります。【田下駄(たげた)】
田植えや稲刈りなどのため田に入ったとき、湿田や泥湿地だと足が沈み込んでしまいます。田下駄は、足が沈み込まないように履いた道具で、稲作が伝わった弥生時代から使われていました。下長遺跡で出土した田下駄は、板状の田下駄で、現代の下駄やサンダルのように板の前方に一つ、後方に二つ穴をあけてその穴に紐を通して足を固定していました。さらに動きやすいように紐をかけるための切り込みを両端に入れていました。
むしろ編み台と木錘【守山市教委】 |
横槌(イラスト) |
田下駄(イラスト) |
【田舟】
田植や稲刈のとき,湿田や深田で使用する平底の小さい舟。舟というよりは形状は刳り物容器の大きなもので、人は乗らず,苗や稲束の運搬に用いました。
出土した田舟【守山市教委】
【木製容器】
弥生時代、容器の多くは土器でした。しかし、身近にある木を加工して容器を作ることもありました。守山市の下之郷遺跡や服部遺跡、下長遺跡からも多くの木製容器が見つかっています。
高精細な木製容器が青谷上寺地遺跡で見つかっていますが、残念ながらそこまで高精細の容器は守山市の遺跡からは見つかっていません。ただ、精巧に作られ、きれいに表面仕上げをした木製容器は見つかっており、日常使いの容器ではなく、首長の威信を示す木器であったと考えられます。
鉄製工具の普及により高度で精細な木材加工が可能となり、木材を刳(く)りこんで作る「刳物(くりもの)」、木材を回転させて削り込んでつくる「挽物(ひきもの)」、薄い板を曲げてつくる「曲物(まげもの)」、ホゾや継ぎ手を用いて板材を組み合わせてつくる「指物(さしもの)」と言った加工度の高い種々の木製容器を作ることが出来るようになりました。
【刳物容器】
(ここの写真はすべて 【守山市教委】)
方形容器(作りは粗い) |
楕円椀型容器 取手付き |
四脚付き角丸容器 |
細長い方形容器 |
【曲物容器】
曲げ物容器の底板が見つかっています。しかし、容器自体は見つかっていません。薄い板なので腐食してしまったものと思われます。
曲げ物底板【守山市教委】
【指物容器】
台形の4枚の板を組合せて使う四方転(しほうころび)箱の部品が8枚見つかっています。全国でも出土例は少なく、どのように使っていたのかが分かりませんでした。奈良県橿原市の瀬田遺跡で弥生時代末期の精巧な脚(台)付き 編みかごが見つかり、使い方が判明しました。
四方転箱の部材 【守山市教委】 |
四方転箱のイメージ図 (奈良文化財研究所) |
【建築材料】
(ここの写真はすべて 【弥生文博・守山市教委】 )これまで弥生時代や古墳時代の建物は、遺構から柱構造は分かりますし、絵画土器などから大まかなことは分かってもっても、屋根や扉がどうなっていたのか細部はなかなか分かりません。
下長遺跡からは屋根の棟押え(むねおさえ)や垂木(たるき)、校木(あぜき)、扉材、留めるための木釘などが見つかっており、建物の細部が推測できるようになりました。
また、具体的にはどのように使われたのか分からないが、鉄製工具で細かい細工が施された建築部材も多く出土しています。
扉板 |
棟押え |
木釘(木栓) |
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垂木 |
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複雑な加工をした建築部材【守山市教委】 |
梯子(はしご)【弥生文博・守山市教委】 |
【雑具】
日常使った、と言っても首長や階級の高い人しか使えなかったのでしょうが、机や椅子、下駄などが見つかっています。王が椅子に座っている姿を模した埴輪が出土している古墳がることから考えると、椅子は威信具だったのかも知れません。杭などを打ち込む「かけや」大型の木槌や船を漕ぐ櫂(かい)なども出ています。
椅子【守山市教委】 |
かけや【弥生文博・守山市教委】 |
櫂(かい)【守山市教委】 |
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机の天板【守山市教委】 |
へら【守山市教委】 |
下駄【守山市教委】 |
【用途不明品】
孔を開けたり溝を付けたりなどの加工を施した板や棒などは、実際にどのように使われたのか、具体的な用途は不明です。ここでは、違う意味で奇妙な用途不明品をいくつか紹介します。
精巧な作りの装飾板【守山市教委】 |
有孔板【守山市教委】 |
球体【守山市教委】 |
上:握り棒? 下:不明【守山市教委】 |
写真左の装飾板は「円と角状突起」を組み合せた形で、権威のある文様を使っています。祭祀具か建物の飾りとして用いられたのかも知れません。
球体は、ラグビーボール様の立体で長径9cm、短径6cmです。用途は不明ですが、投げて遊んでいたのでしょうか?
写真右中段の「握り棒」状のものも用途は分かりませんが、密教で用いる仏具「独鈷杵(どっこしょ)」に似た形が面白いです。