その後の下長遺跡
下長遺跡は水運に利用していた川道の水量が少なくなり埋没していくことにより、水運拠点と
しては衰退しました。
拠点集落ではなくなりましたが、人々はこの地のどこかに新たな拠点集落を築いたようです。
具体的には、どこにその拠点集落があったのか分かりませんが、拠点集落にふさわしい遺構・遺物
が見つかっています。
しては衰退しました。
拠点集落ではなくなりましたが、人々はこの地のどこかに新たな拠点集落を築いたようです。
具体的には、どこにその拠点集落があったのか分かりませんが、拠点集落にふさわしい遺構・遺物
が見つかっています。
埋没する川道と水田利用
弥生時代後期には流れていた川も、古墳時代前期には水量が後退して川幅が狭くなります。川が後退して現れた湿地は稲作に適しており、人々はそこを水田として利用し始めました。
川はその後も水量が減ったり、度重なる洪水で埋もれていったりしました。
埋もれてしまった川を発掘すると4つの時代で水田が営まれていた痕跡が見つかりました。
図から判るように、元からの陸地はほぼ同一面に各時代の遺構が重なっていますが、川道は層状に陸化していったため、各時代の水田が分離して見つかりました。
古墳時代、奈良時代の水田はまだ湿田状態だったので しょう、畦を作るときはその下に木材や自然木を下に敷いて地盤を固くする工夫をしていました。
出典:守山市誌(考古編)
平安時代の建物跡
古墳時代前期末に下長遺跡が衰退した後、古墳時代中期、後期の遺構は少なくなりますが、平安時代になると再び建物が建ち始めます。下長遺跡の東北側に、平安時代前期の建物跡が1か所、後期の建物跡が2か所見つかりました。
ほとんどの建物が総柱建物で、条里制に従った方向に沿って建てられます。
平安時代後期には、11m四方の大きな建物(5間×5間 総柱式)が建てられます。この建物は住まいにしては大きく公的な目的の建物だったと考えられます。一番大きいこの建物は、同じ所に、ほぼ同じサイズで4回も建替えられており、長期にわたって使われていました。
土器が出土しますが量も少なく、建物の性格がうかがわれるような遺物はありませんでした。
平安時代の建物跡 出典:発掘調査報告書より作成(田口)
古高古墳群
下長遺跡の南側に、3基の古墳が残されています。いずれも下長遺跡が衰退した後の古墳で、繁栄していた下長遺跡とは関係はありませんが、下長遺跡を継いだ人たちの古墳でしょう。
古高古墳群 【守山教委】
これらの古墳の発掘調査は行われておらず、詳細は分かりません。
【狐塚古墳】
古墳時代中期〜後期の古墳です。
古書には円墳と書かれていましたが、墳丘測量の結果、長辺14.5m、短辺9.5m、高さ1.3mの長方形古墳です。
【松塚古墳】
古墳時代中期〜後期の古墳です。 直径30m、高さ12mの円墳と言われていますが、下長遺跡の南側に、3基の古墳が残されています。
いずれも下長遺跡が衰退した後の古墳で、?栄していた下長遺跡とは関係はありませんが、下長遺跡を継いだ人たちの古墳でしょう。
墳丘調査の結果、隅が丸い長方形古墳と分かりました。
【幸田塚古墳】
古墳時代後期の古墳です。直径10m、高さ約2mの円墳ですが、詳しいことは分かっていません。
八ノ坪遺跡の衣笠
下長遺跡より北東約3.5kmのところに、下長遺跡と時代が重なるか、少し下がる時代の八ノ坪遺跡があります。この遺跡より、衣笠(きぬがさ)の立飾りが出土しました。衣笠とは、イラストのように身分の高い人物に従者が差し掛けた柄の長い「さしがさ」で、雨や日よけの実用具と威儀具を兼ね合わせて用いられました。衣笠は、奈良県の高松塚古墳の壁画にも描かれており、先進的な文物の一つとして中国からもたらされ、日本では権力を象徴する威儀具として、祭祀や儀式に用いられたと考えられます。
八ノ坪遺跡で見つかった衣笠の立飾りは、傘の上に飾る十字に組んだ板状のもので、1セット4枚のうちの1枚が見つかりました。大きさは、長さ29.4cm、幅は約13cm、板厚は0.4〜0.8mmで、内側に1か所、外側に2か所の突起が付いています。両面には精巧な組帯文が浮き彫りになっており、黒漆を塗って仕上げてあります。
「組帯文と黒漆仕上げ」というだけで、かなりの権威者の所持品と分かります。
この立飾りが下長遺跡とほぼ同じ時代に、直ぐ近くで見つかったということは、守山の古墳時代を考える上で大変重要な遺物と言えます。
衣笠の立飾りと使用想像図【守山市教委】 |
立飾りのついた埴輪【橿考研】 |
古墳から衣笠をかたどった蓋(きぬがさ=衣笠)形埴輪が出土することがありますが、八ノ坪遺跡で見つかった衣笠の立飾りによく似た器財型埴輪(きざいがたはにわ)が佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳より出土しています。
4世紀後半に築造されたこの古墳は、全長が208mに達する巨大な前方後円墳で、垂仁天皇の皇后である日葉酢媛(ひばすひめ)の墓であるといわれています。
八ノ坪遺跡でそっくりな立飾りが出たということは、古墳時代前期の守山には、佐紀陵山古墳の被葬者と同じような階層の権力者がいて、この地を統治していたことも考えられる有力な証拠になります。
大岩山古墳群
古墳時代初頭から前期の始め、下長遺跡が盛隆を極める頃、塚之越遺跡では前方後方型周溝墓が築かれていた時代ですが、下長遺跡から6kmほど北東に大岩山古墳群が築かれだします。日本で古墳が築かれ始める早い時期です。下長遺跡と塚之越遺跡の方形周溝墓と大岩山古墳との関係は分かっていませんが、その当時に存在した拠点集落が下長遺跡と服部遺跡ですから、何らかの関係があっても不思議ではありません。
大岩山古墳群
伊勢遺跡が廃絶されるとき、銅鐸を埋納したのが、やはり大岩山で、大岩山古墳とはすぐ近くです。
野洲川下流域の人々にとって大岩山は聖なる領域ですから、下長遺跡や服部遺跡の首長の墓を銅鐸埋納の地に選んだとしても当然のことと思えます。
大岩山古墳群では、古墳時代前期から飛鳥時代まで、営々と古墳が造り続けられるところです。
大岩山古墳群には規模の大きな古墳があるのが17基が確認されています。そのうち8基が国指定史跡になっています。
最も早く造営されたのが前方後方墳の冨波古墳で、古墳時前期に築かれました。全長が42mもあり塚之越遺跡の前方後方型周溝墓の倍近い大きさです。下長遺跡が栄えている期間に、さらに、古冨波山古墳(直径30mの円墳)、大岩山二番山林古墳(形態不明)、大岩山古墳(円墳?)が築かれます。
銅鐸埋納の地に近いこと、当時の拠点集落は下長遺跡と服部遺跡であること、第一期の造墓活動が下長遺跡の期間とよく合うことなどを考え合わせれば、下長遺跡か服部遺跡の首長の墓という可能性も残されています。
大岩山古墳群(丘陵地と平地の2か所)
枠付きが国指定史跡 赤字は下長遺跡と同時期
下長遺跡を継ぐのは?
弥生時代後期、伊勢遺跡、下鈎遺跡、下長遺跡が伊勢遺跡群として機能していました。後期末、伊勢遺跡が廃絶した後、下長遺跡は栄えていきますが、伊勢遺跡、下鈎遺跡は衰退していきます。
古墳時代初頭から前期になるころ、伊勢遺跡、下鈎遺跡は人々が住まなくなりますが、入れ替わるかのように、東へ1〜2kmのところに新しい集落が生まれます。
辻遺跡、岩畑遺跡、高野遺跡です。伊勢遺跡の人たちが移り 住んだような格好です。
古墳時代前期前半は下長遺跡が栄え、新しい3つの遺跡は、小さな集落として続いていました。
下長遺跡の川の水量が減り、水運ができなくなると下長遺跡の集落は縮小していきます。
古墳時代の大集落
下長遺跡の人たちが移り住んだような格好です。
【高野遺跡】
古墳時代前期を中心とする集落で、約150棟の竪穴住居が見つかっています。竪穴住居4〜5棟に対し、掘立柱建物が1棟の割合で見つかっています。
竪穴住居は、方形プランで、4本の主柱をもち中央に炉を備えています。
【岩畑遺跡】
高野遺跡と野洲川にはさまれた区域に、古墳時代前期の竪穴住居群が150棟以上検出されています。
竪穴住居の一画に墓域があり、方形周溝墓や前方後方型周溝墓、土壙墓が設けられています。
土壙墓からは鉄剣などの鉄製品や玉類が見つかっており、被葬者の格の高さがうかがわれます。
この地域の住宅跡からは、他地域からの搬入土器や初期須恵器、鉄製品、滑石製品やその未成品、原石、ガラス玉などが多く出土しており普通の集落とはやや異なった姿を見せています。
また、鉄鏃や刀子などの鉄製品を出土する竪穴住居が多数あります。土壙墓から出土した鉄剣や鉄鏃は武器と考えられ、この集落は農業のかたわらかなりの武器を常備した軍事集団であったと思われます。
【辻遺跡】
縄文時代から鎌倉時代にかけての複合遺跡です。古墳時代前期から奈良時代にかけての竪穴住居が300棟以上、掘立柱建物が30棟以上見つかっています。
古墳時代後期の竪穴住居からは滑石製の有孔円盤や臼玉、原石、未成品、砥石などが多数出土していて、この集落で滑石製品の再作が行われていました。
集落の一画には、古墳時代前期の前方後方型周溝墓があり、全長16m、前方部が6mとなっています。
この遺跡からは、韓式土器や初期須恵器が出土しており、渡来人との交流があったようです。
注:この項は「古代近江の遺跡」サンライズ出版 より転載。