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建物
下長遺跡の建物についてみていきます。弥生時代後期の伊勢遺跡、古墳時代の服部遺跡とは同じ
時代に存在しますが、下長遺跡の建物は当時の一般的な竪穴住居ではありませんでした。
一方で、伊勢遺跡とのつながりを示す建物も存在しました。
住居の種類
弥生時代から古墳時代の一般的な建物は竪穴住居で、倉庫などに掘立柱建物が使われていました。
下長遺跡と同時代の服部遺跡でもほとんどが竪穴住居でした。
竪穴住居跡と竪穴住居 柱穴と掘立柱建物
竪穴住居跡と竪穴住居【守山市教委】
柱穴と掘立柱建物【守山市教委】

ところが、下長遺跡で見つかる住居跡は、弥生時代から掘立柱建物を多用し、古墳時代にはほとんどが掘立柱建物です。これには下長遺跡が氾濫原の低地に位置することが影響しています。

建物の分布と密度

下長遺跡には弥生時代、古墳時代、平安時代の建物跡が多く見つかります。
また、例え同じ古墳時代でも数度の建て替えがあって建物跡から同時期の建物を判定するのはとても難しいことです。
ここでは、時代を考慮せずに建物跡の分布についてみてみます。
図は、建物跡が見つかる範囲の広さを円の大きさで、色の濃淡で密度を示しています。下長遺跡の範囲を全て発掘したわけではないので、特に図の下半分の区域は、歯抜けのところが存在します。

建物跡の範囲と密度
建物跡の範囲と密度 出典:発掘調査報告書より作成(田口)

図の右上(遺跡の東端)の色の濃いところは平安時代の建物跡が多いところです。
居館のある場所付近が、一番建物跡が密集して多く見られるエリアです。南北に流れる川道に沿って建物が存在していたことが分かります。
弥生時代の建物跡:竪穴住居 31棟  掘立柱建物:30棟+α
古墳時代の建物跡:竪穴住居 14棟  掘立柱建物:149棟+α
平安時代の建物跡:竪穴住居 なし  掘立柱建物:42棟  

西地区(川筋の左岸)の建物分布

首長の居館があった周辺の建物の配置を下図に示します。この地域は、下長遺跡で最も建物が密集している所です。
数棟の竪穴住居が見られる以外は、掘立柱建物が大多数を占めています。
これは地形のところでも述べましたが、下長遺跡の立地は自然堤防と川筋の間の低地にあたります。
このため、地面の湿気が多いと見えて、竪穴住居は少なく、掘立柱建物が使われたようです。
ただ、これだけの建物が同時に立っていたわけではなく、数回の建て替えが行われていますが、ここでは、建物跡から判る「建物の種類と大きさ」に注目して調べています。
(例えば、居館域の建物群のところで示したように、建物は2つ以上の時期に分けられる)
この地域の掘立柱建物の方位は、比較的揃っています。

西地区の建物分布
西地区の建物分布 出典:発掘調査報告書より作成(田口)

居館の周辺から、旧川筋に向かって多くの掘立柱建物が建っていました。
居館の南西(図では下側)にも数棟の掘立柱建物があるのですが図示ができていません。
さらに南側(図の範囲外)にも集落が広がっていたと推定されますが、発掘調査は行われていません。

中央東地区(川筋の右岸)の建物分布

集落を南北に流れる川筋の右岸の集落の様子を図に示します。
上の西地区と同様ほとんどが掘立柱建物で、少数の竪穴住居が見られます。
掘立柱建物の方位は、西地区の建物群に比べるとばらついており、密度も低いです。

中央東地区の建物分布
中央東地区の建物分布 出典:発掘調査報告書より作成(田口)

建物サイズの分析

【竪穴住居】
円形竪穴住居が7棟あり、直径が5m〜8m、 平均面積は 約50u です。
方形竪穴住居は32棟、 倉庫と思われる特別に小さいものを除くと、5m〜8m四方の大きさとなっています。 平均面積は約35u で、円形竪穴住居よりは小さくなっています。
服部遺跡の円形竪穴住居(弥生後期)の平均面積が 円形建物で45u、方形竪穴建物(古墳前期)で
50uとなっており、下長遺跡の円形建物は服部遺跡とほぼ同じ大きさで、方形建物は一回り小さいという感じです。
【掘立柱建物】
相対的に小さな掘立柱建物が多いです。柱間隔が1間×1間とか1間×2間という構成で、勢い床面積は10u程度と小さくなっています。竪穴建物に比べると数分の一の大きさです。
床面積10uというと、現代の8畳の間くらいの広さです。竪穴住居と違って、壁がストレートに立ち上がっており、竪穴住居の4本柱の間のスペースと比べるとそれほど狭くはなかったのかも知れません。
でも下長遺跡ではこれがほとんど占めます。
一番大きいのが首長の居館で床面積40uと「大型建物」の範疇に入ります。

建物のサイズ
西地区内の西側(赤色は居館)                西地区内の東側
建物のサイズ 出典:発掘調査報告書より作成(田口)

面白いことに、ほとんどが小さな建物群の中に、床面積が20〜28u程度の中型建物が1棟〜2棟、その中に存在することです。中型建物の用途は分かりませんが、小型建物10棟くらいで共用の建物、例えばお米の倉庫とか集会場を持ったのかもしれません。

立地と建物

弥生時代、古墳時代の一般的な竪穴住居に比べ、下長遺跡で掘立柱建物が多いは、自然堤防と川道の間の低地に建物を建てたためと、述べましたが、もう少し立地と建物形式について見てみます。
【全般的にみられること】
@弥生時代の建物は川道から離れた場所に多い。竪穴住居が主に使用されており、まれに掘立柱建物が使われることがある。
A古墳時代になると建物が川道に近づいていき、ほとんどが掘立柱建物となっていく。
@Aは、低地で土地の水分が多いところでは竪穴住居は使えず、掘立柱建物にした・・と解釈できます。
古墳時代初期から川道の水位が下がり、かつ埋没していくようになります。古墳時代には新しく生まれた河道そばの土地に向かって建物を建てていくようになりますが、地盤は軟弱で掘立柱建物しか使えなかったようです。
地盤が軟弱だったのは、柱穴の底に礎板を入れたことからも分ります。

柱穴の底に敷かれた礎板
柱穴の底に敷かれた礎板
【守山市教委】
【竪穴住居での対策】
竪穴建物は一般的には、数十cm地面を掘り下げて、主柱を4本立て、屋根を被せます。
しかし、下長遺跡の土地は地下から水分が上がってくるようで、竪穴は極めて浅いか、あるいは竪穴を掘らない平地式の建物となっています。
また、川道に近いところでは、雨水の流れ込み防止や排水を兼ねて周囲に溝が掘られています。
いわば、「排水溝付き平地式上屋構造」の建物ということです。

排水溝付き竪穴建物
排水溝付き竪穴住居
出典:下長遺跡発掘調査報告書(守山市教委)
排水溝付き竪穴建物
排水溝付き竪穴住居イメージ図
(絵:中井純子氏)

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