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下長遺跡のここが凄い!
全体図

お知らせ
【下長遺跡HP公開記念講演会】
H30年2月12日 「イズモ王権は伊勢遺跡と関わるか?」を森岡秀人さんに講演して頂きます
詳細はこちらから ⇒ 記念講演会 詳細

【意見の広場に新規投稿】
H30年1月12日 野洲川下流域のHPに、次の2件を掲載しました。
 (項目をクリックすると、内容が表示されます)
びわ湖水運の一大拠点
滋賀県守山市の下長遺跡は、びわ湖岸から約3.5km内陸部にあり、縄文時代から弥生・古墳・平安時代の遺構がほぼ同一面に重なっている複合遺跡です。
びわ湖水運(びわ湖の湖上物流とびわ湖につながる河川を使った物流を総称する)は近世まで物流の大動脈として使われてきました。弥生時代後期から古墳時代早期にかけて、下長遺跡はびわ湖水運および陸路との接続点となる一大拠点としてとして栄えました。
びわ湖水運は、瀬戸内海ルートと日本海ルートを結び、北陸・東海ともつながる位置にあり、卑弥呼政権や後のヤマト王権にとっても重要な場所でした。
びわ湖岸にはこのような水運拠点がいくつもあり、湖岸をつたって舟運が行われていたと考えられます。このような水運拠点には首長がいて統治を行っており、出土遺物からは卑弥呼政権との結びつきがあったことも分かっています。
下長遺跡からは、水運用の準構造船や漕ぐための櫂(かい)、首長居館や大きな祭殿、倉庫群などの建物、首長や集落の格(規模や権威の高さ)を表す威儀具などがたくさん見つかっています。
このような遺構や遺物から判断すると、下長遺跡はいくつかある水運拠点の中でも、卑弥呼政権との結びつきが密で、特に重要な位置を占めていたと考えられ、びわ湖水運に携わる首長共同体のリーダであったと云えます。
水上交通
古墳時代の水上交通路
出典:守山市史(考古編)
河道
  びわ湖水運のルート
 出典:下長遺跡パンフレット(守山市教委)
卑弥呼政権との密なつながりを示す祭祀・威儀具
纏向に生まれた卑弥呼政権は必ずしも強固な権力を持っていたわけではなく、各地の首長連合の盟主として倭国を統治していました。各地の首長に権威を示しながらも良好な関係を保つために、中国から導入した新しい祭祀・威儀具を首長たちに配布していました。
ただ、どの首長にも同じように配布していた訳ではなく、卑弥呼政権から見た重要度に応じ、それに相応しい威儀具を配っていたと考えられます。
それは祭祀・威儀具の種類であったり、それに表された文様であったりします。
この視点から、下長遺跡で見つかった祭祀・威儀具を見ると、他所ではあまり見られないものであり、そこに施されている文様は、古墳時代に最も重要視された文様で、誰でもが使えるものではないのです。云ってみれば、江戸時代の葵の御紋のようなものと云えば分りやすいでしょう。
ここから、下長遺跡と卑弥呼政権との密な関係が見て取れます。
威儀具
【守山教委】
生活・建物の様子が判る多様で多量の木器
下長遺跡は野洲川三角州の氾濫原(はんらんげん:扇状地より下流で伏流水が地表に現れる低地で、河川の氾濫で水につかる地域)に位置し、しかも自然堤防内側の低地に営まれていました。
このため川や溝に捨てられた木器は、泥水につかった状態となり腐ることや風化することなく保存されました。
ほとんどの遺跡で土器が発掘されますが、木器が見つかる遺跡はそれほど多くはありません。
下長遺跡では泥水に保護され、用途、樹種が判る多くの木器・木製品が残され、今日に伝えられました。
容器、農具、建築材、工具、祭祀具など用途は広範にわたり当時の生活、建築技術などを読み解くことができます。中には、精巧な作りでありながら、今となっては用途の分らない木製品もありました。
木器
【守山教委】
下長遺跡のあるところ
下長遺跡は、守山市の南西、草津市、栗東市との境界に近い場所にあります。
平成58年から始まった大規模な工業団地開発の時に見つかった遺跡です。
工業団地は一気に開発・建設されたのではなく、平成20年代まで次々と工場が建設され、その都度、遺跡の発掘調査が行われていき、現在は工場が立ち並ぶ団地になっています。
野洲川は、長い歴史の中で流れを幾度も変え、大きな扇状地〜氾濫原〜三角州を形づくってきました。
下長遺跡はその扇状地に近い氾濫原に位置します。 その当時の野洲川は上流で分流し、その一つである「境川」が下長遺跡の少し北側を流れていて、境川の支流が遺跡の中央を横切って流れていました。

下長遺跡へのアクセスはこちらをご覧ください ⇒ 行き方
下長遺跡の位置



口絵の解説:古墳時代早期の集落の様子(絵:中井純子氏)
下長遺跡の解説

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