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弥生時代後期
弥生時代後期後半、伊勢遺跡が最も栄える頃、下長遺跡が現れ、古墳時代前期にかけて勢力を伸長 します。
弥生時代後期末から古墳時代に変わるころ、世の中が混乱し大きな社会変革が起きて、大きな集落は停滞します。しかし、そのような時期に下長遺跡は最盛期を迎え繁栄するのです。
その繁栄の基盤となる遺構や遺物が弥生時代後期に見られるはずなのですが、実はあまりよく分かっていません。
時代区分として重要な時期なので、一節を設けて「弥生時代後期の様子」を記します。
弥生時代後期の様子
弥生時代後期に見られる遺構は次のようなものです。
・伊勢遺跡とほほ同じ大きさの祭殿が建てられる
・旧川道の両側に竪穴住居や掘立柱建物が建てられる(古墳時代に比べると少ない)
   その中に 伊勢遺跡で見られた 五角形竪穴住居がある
・伊勢遺跡でも見られたような区画溝が存在する
・弥生時代後期に属す土器が出土するものの量的には少ない
・古墳時代に見られるような威儀具は見つかっていない
・掘立柱建物は倉庫とも考えられるが、水運拠点としての遺物・遺構は見つかっていない
という状況で、あまり集落の様子や生活実態が分かりません。
祭殿が持つ意味
SB-1の想像図 伊勢遺跡と同じ規模の独立棟持ち柱建物が弥生時代後期後半に建てられます。(建物の詳細は次節に記します)
しかも古墳時代早期にも同じエリアに祭殿が建てられ、さらに建て替えられます。時代を引き続いで祭殿が建てられるエリアということは、そこは下長遺跡にとって祭祀域と見做される場所のはずです。
「祭祀域に特別の意味を持つ独立棟持ち柱の祭殿が建てられる」という状況でありながら、その当時の状況があまり見えてきません。
ただ、「祭祀域には生活痕がない」という点は伊勢遺跡とよく似ています。
何を目的として祭殿を建てたのでしょうか?
伊勢遺跡の繁栄期なので、伊勢遺跡群の一翼として同じ目的をもって建てられたことでしょう。
伊勢遺跡の廃絶と共に、その祭殿の目的・意義は消え去ったと思われます。事実、弥生時代後期に建てられた祭殿は、後期末には柱を抜き取られ解体されるのです。
区画溝?
集落の南側に、西から東へ向かって溝が掘られます。遺跡の中央辺りで、溝はクランク状に曲がり、北へ向かって伸びています。
溝の下層から弥生時代後期の土器が出土しており、この時期には溝が存在していました。また、溝の上層からは古墳時代の初期須恵器が出てくるので、古墳時代にもこの溝があったようです。

区画溝
 区画溝 出典:発掘調査報告書より作成(田口)

南北方向に延びている溝は、旧川道と重なっている部分や未発掘調査の部分があって、つながっていたのかどうか、分かりません。しかし、幅が3m〜6mと広く、深さは50〜60cmと似たような大きさで、方向もほぼ一致しています。一見、弥生時代中期の環濠のように見えます。ただ、溝深さは浅く防御用の濠とは考えられません。
溝を再掘削した痕跡が残されており、溝を維持する必要性があったようです。川が機能していた弥生時代後期から古墳時代早期にかけての用途と古墳時代前〜中期の用途は違っていたかもしれません。
伊勢遺跡でも大溝やクランク状に折れ曲がった溝が見つかっており、よく似ています。
不思議なのは、南北方向の大溝は遺跡の中央を流れる川道とほぼ平行に走っていることです。
区画溝とすると、何を区画しているのでしょうか?
五角形(?)竪穴住居
伊勢遺跡では9棟の五角形住居が見つかっています。弥生時代後期の五角形住居は日本海沿岸地域に多く見られ、この地域との交流を示すものです。
弥生時代後期の下長遺跡から、五本柱の竪穴住居が2棟見つかっています。ただ、下長で見つかった五本柱の住居は、竪穴が円形と穴の掘り込みが無いものなのです。竪穴形状が五角形ではないので真正五角形住居なのか悩ましいところですが、五本柱自体が珍しく、伊勢遺跡の影響を排除できません。ここにも伊勢遺跡との関りが見て取れます。
五本柱の竪穴住居
五本柱の竪穴住居 【守山市教委】
その後の繁栄との関り
弥生時代後期に建てられた祭殿の近くに新しい独立棟持ち柱建物の祭殿が建てられます。
木造の祭殿は年の経過で劣化していくので、同じところに建て替えられ継続的に使われていました。
また、威儀具から見ても卑弥呼政権との繋がりが密です。
祭殿については伊勢遺跡時代との繋がりがみられるのですが、在地の人が集落を継いで繁栄に導いていったのか、別の人たちがやって来たのか、それも不明のままです。

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