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下長遺跡の特徴
下長遺跡の詳細は次節以降に述べますが、遺跡の概観や栄えた時代、遺跡の特徴、歴史的な意義など、遺跡全体に関わる特徴的な事柄をまとめています。
重層化した複合遺跡
境川の支流が流れる下長遺跡周辺は、縄文時代から人の足跡が多くみられる所です。
下長遺跡は、縄文時代から平安時代までの集落跡が同一面で切り合って見つかります。具体的には、縄文時代中期、晩期、弥生時代中期、弥生時代後期から古墳時代前期、古墳時代後期、平安時代のおおむね6つの時期の遺構・遺物が見つかります。
守山市の遺跡で見てみると、ちょうど服部遺跡と時期的に合っています。
下長遺跡と服部遺跡は大規模開発工事で見つかり、広大な面積が発掘調査された、という点でも類似性があり、興味深いことです。
服部遺跡は、度重なる大洪水に襲われ、そのたびに集落が土砂で覆われました。各時代の遺構は、この土砂によりサンドイッチ状に保護され、後世に残されたので、時代別に遺構の識別が可能でした。
この点、下長遺跡は、ほぼ同一面で各時代の遺構が積み重なっており、後世の破壊もありました。
発掘調査という面では、層位で時代が区別できないため、出土物――特に土器の特徴から時代が識別されました。
ただ、遺跡の中央を流れていた川は、時代を経るにつれて水量が減り埋没していきました。この場所は 時代別に層位が分かれていて、遺物・遺構が時代別に保存されていました。
下長遺跡の盛衰
下長遺跡の盛衰
出典:発掘調査報告書より作成(田口)

上の図は、各時代ごとに、遺構・遺物の出現密度に歴史上の重要性を加味した「遺跡の繁栄度」を感覚的に表したものです。
下長遺跡は、弥生時代後期末から古墳時代早期にかけて最も栄えます。
時代別の遺跡の広がり
上に各時代の盛衰を書きましたが、時代別の遺構の広がりを図に示します。
工業団地造成で、一気に土地開発が行われたため、時代ごとに人々が土地をどのように利用したかがよく分ります。
境川支流辺りが住みやすいのか、多くの時代の遺構が重なっています。

下長遺跡の時代別遺構の分布

出典:守山市史(考古編)改編
弥生時代後期 伊勢遺跡群の一つとして造営?
弥生時代中期末、それまで栄えていた近畿地方の大型環濠集落が一斉に終焉を迎え、その後は大きな集落がなくなります。そのような時、伊勢遺跡が突如として現れます。
伊勢遺跡には、大きな掘立柱建物や独立棟持ち柱付の大型建物が何棟も、次々と建造されます。特殊な建物とそれらが方形と円形の組み合わせという特異な配列になっており、ここは祭祀空間とみなされています。
この時代、野洲川流域は近畿を中心とする銅鐸祭祀圏のクニグニからなる連合国の中枢で、伊勢遺跡はそれらのクニグニの祭祀の場であったと考えられています。
伊勢遺跡群
伊勢遺跡群(絵:中井純子)
伊勢遺跡が出現してしばらくしてから、南西1.5kmのところに下鈎遺跡が現れます。位置関係は前節をご覧ください。
この遺跡は出土品から、銅製品を作っていたことが判ります。
また、それからしばらくして、伊勢遺跡が最も栄えたころに下長遺跡が出現します。伊勢遺跡から見て北東2km弱の場所です。弥生後期のこの時代に下長遺跡がびわ湖水運の拠点であったという出土物は出ていないのですが、古墳時代初頭には一大水運拠点になることから、伊勢遺跡の時代にもここに水運拠点が築かれた可能性があります。
伊勢遺跡、下鈎遺跡、下長遺跡の3つの遺跡はほぼ同時期に近接した場所に造営されており、祭殿とみなされるほぼ同じ形の独立棟持ち柱付大型建物が建てられています。このことから、これらの遺跡は計画的に機能分担して建設されたと考えています。いわば、新首都建設のようなものです。
下長遺跡はびわ湖水運の拠点であり、陸路との結節点でもありました。多くのクニグニと伊勢遺跡を結ぶ、すなわち、伊勢遺跡へアクセスする水運ターミナルとしてここが選ばれ、港が作られたと考えられないでしょうか?
古墳時代早期に最盛期を迎える
弥生時代後期末、卑弥呼が女王として共立されたとき、伊勢遺跡は廃絶します。
古墳時代初頭は大きな社会変革があり、新しい社会が形成されろ時代に、下長遺跡はさらに栄えるようになります。丁度、卑弥呼の邪馬台国が立ち上がる時代です。
方形区画を伴う首長の居館や大きな祭殿が建造され、高位の首長にふさわしい威儀具を使っていました。これらの威儀具は卑弥呼政権が中国から導入した新しい祭祀の道具で、配布されたものです。
威儀具の種類や付けられている文様などは、当時重要視された権威ある文様でした。
水運の一大拠点となっていた下長遺跡は卑弥呼政権からも重要視され、そのような威儀具を配布されたのです。これらの威儀具は、纏向との密なつながりを示しています。
川筋の変化に伴い衰退した遺跡
下長遺跡は弥生時代後期後半から古墳時代前期にかけ水運拠点として勢力を伸ばしましたが、拠点としていた境川の支流の水量が減り、徐々に川が埋没していきました。
恐らく、水路を掘って舟が通れるような工夫をしたと思われますが、それもかなわず、水運拠点としては機能しなくなり、衰退していきます。
とは言え、当時の人々はたくましく、埋没していく川辺を水田として活用していた痕跡が残っています。
すなわち、水運拠点集落としては命が絶たれたものの、水田地帯へと変化していったのです。
歴史的意義

卑弥呼政権の時代の国の姿を見ることができる

弥生時代の中ごろまでは、小さなクニグニに分かれていましたが、各クニには首長がいました。後期になると、そうした小さなクニの統合が進み、大きなブロックが形成されたとみられています。その頂点に卑弥呼政権、後のヤマト王権がありました。
古墳時代になってこの階層性はさらに進み、一つのクニの規模がおおきくなり、小さな共同体の上のさらに大きな共同体がある階層構造になっていったようです。
上位のクニはそれにふさわしい施設、威信具、威儀具を持ち、高い序列であることを示していました。
愛知県埋蔵文化財センターの樋上昇さんは、集落の構造や出土する威信具・威儀具の内容から、その集落と首長の階層のランク付けを試みておられます。
威儀具の中でも重要なのは、卑弥呼政権が大陸より入手した品物で、中国の権威を後ろ盾にしつつ初期ヤマト王権連合体の首長に配布していました。
この観点より下長遺跡を見ると、最上位に属す集落構造(方形区画に囲われた首長の居館、独立して設けられた大型祭殿)、最上位の威儀具(組帯文のある儀仗、直弧文を施した刀の柄頭・鞘、団扇(うちわ)状木製品)などが一揃いみられる集落で、卑弥呼政権が勢力を拡大していく時代の、国(律令時代の国にあたる)の様子、そこに出現した首長の具体的な姿、そこで執り行われた祭祀の様子が判る貴重な遺跡です。
言い換えれば、服部遺跡と共に卑弥呼の時代の一つの国の姿を見ることのできる遺跡です。

時代区分の考え方

卑弥呼が邪馬台国の女王となって倭国を治めていた時代、この時期をどう捉えるか、歴史学者によっていろいろな呼称で表現されています。
このホームページでは「古墳時代早期」と称します。この時代の政権を「卑弥呼政権」または「初期ヤマト王権」と呼ぶことにします。
時代区分

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